第1部 第9話
 
 
 
気分は007。
いや、せめてキャッツアイにしておこう。

だけど時間は午後8時。
キャッツアイが出る時間にしてはちょっと早いかもしれない。

だって、ちょうどパパとママが2人で外食に出掛けたし、
お姉ちゃんは修学旅行でもちろんいない。
お手伝いさんは何人か家の中にいるけど、
さっきパパの書斎を掃除し終わったところだから、当分入ってこないだろう。

私はそれでも足音を忍ばせてパパの書斎に忍び込んだ。
(床は分厚い絨毯だから、どうやっても足音は出ないんだけど)
思わず、指紋を拭き取ろうかと思ったけど時間の無駄なのでやめた。

そして一直線に小ぶりの金庫へ向かう。

金庫はいくつかあって、もっと大きなものもあるけど、
この一番小さな金庫はコンツェルンとは関係ない、寺脇家そのものに関する重要書類が入っている。
生命保険の証書や通帳、家系図、そして判子。

パパに「パパとママにもしものことがあったら、この金庫を開きなさい。
そうすれば、ナツミとマユミが一生困ることがないようにはしてある」と言われている。
暗証番号は私とお姉ちゃんの誕生日の日付をランダムに入れ替えたものだ。
もっとも、お姉ちゃんはこの金庫の存在も忘れているだろうけど。
そう言う私も、普段は金庫の存在なんて意識してないし、開いたこともない。


私は、すっかり泥棒気取りで(キャッツアイはどうした)、
意味もなく金庫に耳をあてながらカチカチとダイヤルを合わせた。
拍子抜けするほどあっさり金庫が開く。

中には書類のつまったファイルと青い箱が入ってる。

この箱が判子ね?

取り出してそっと蓋を持ち上げると、独特の重みと勢いで箱がパカッと開いた。
赤い絹のクッションに埋もれるように大中小三つの判子が並んでいる。

小さいのが認め、中くらいなのが銀行印、大きいのが実印、よね。

私は少し悩んだ。
月島さんは認めでいいと言っていたけど、銀行印か実印に越したことはないらしい。

こうして3つの判子が一緒に並んでいると、
この箱の中からどれを取り出してしても大差ないように思える。
でも、実印は思いのほか大きかった。
なんでもない紙にポンと捺すには、少し勇気がいる。

でも・・・
私は、昼間の月島さんの言葉を思い出した。


「自分の中にそういう大義名分がないと、ナツミの妹なんて堂々と誘えないからさ」


そうだ。
コレは、月島さんの本来の目的であると同時に、大義名分でもあるんだ。
私と会うための。

そんな思いが、私に「少しの勇気」を与え、一番大きな判子を手に取らせた。








「あれ?師匠?」
「・・・」

図書室から出てきた「師匠」は、私を見てうんざりした顔になった。

「俺をそう呼ぶってことは、お前は寺脇の姉貴だな?」
「妹です」
「・・・嘘だろ」

こう間違えられるのはしょっちゅうだ。
実際、歳さえ無視すれば、私が姉みたいなもんだし?

「初めまして、師匠。私、高等部1年の寺脇マユミです」
「師匠って・・・やめろよな。たく、姉妹揃って迷惑な奴らだ」

師匠は「はあー」と大きくため息をついた。

この「師匠」こと・・・あれ。そう言えば本名知らないや・・・は、お姉ちゃんのクラスメイト。
昔は、お姉ちゃんと師匠は特に仲がいいって訳じゃなかったのに、
お姉ちゃんがバイトを始めて節約主婦に変身して以来、
お姉ちゃんはこの人を「師匠!」と崇めている。

というのもこのお師匠様。
堀西に通ってるくせに家が貧乏なのか、お金を持っていない、らしい。
お姉ちゃん情報によると、学食があるのに毎日お弁当持参だし、
筆記用具も最後の最後まで使うし、とにかく節約できるところはとことん節約する。
だけど、使うべきところにはきちんと使う。

お姉ちゃんは彼のそういうところを凄く尊敬していて、いつも彼のことを「師匠」と呼んでいる。
私もよく家で、
「師匠って凄いんだよ!水筒を持ってきて、自動販売機を使わないようにしてるんだって!
私も明日から持っていこう!」、
とか聞かされてる(何が凄いのかよくわからないけど)。

お陰で、私は師匠と話すのは今日が初めてなのに、すっかり仲良しな気分だ。

「俺は弟子を取った覚えはないし、寺脇と仲良しでもない」
「でも、お姉ちゃんは師匠のこと大好きみたいですよ?
師匠に子供ができたら、自分がバイトしてる保育園で安く見てあげるんだ、ってはりきってます」
「何年後の話だよ。その頃には寺脇も保育園で働いてなんかないだろ。
それに、寺脇に子供を預けるなんて虐待行為はしたくない」

それもそうだ。

「そういえば、師匠。どうして学校にいるんですか?修学旅行は?」
「人の話聞いてるか?さすがは寺脇の妹だよな」
「あ、そっか。お金ないからいけないんだ?で、学校に残って勉強してるんですか?
偉いですね。私なら学校来ずに遊んじゃう」

師匠がキッと私を睨む。

あれ。よく見れば、なかなかかっこいいじゃない。
月島さんほどじゃないけど。

「金がないのは本当だけどな。俺、海外旅行になんか興味ないし。
日本で温泉につかってる方がよっぽどいいぜ」

ふーんだ、と言うように見栄を張る師匠。

「でもアイスランドにも温泉がありますよ。私も小学生の時行ったけど、すごく気持ち良かったです」
「え?そうなのか?くそっ、寺脇と神楽坂の言葉に甘えて行きゃよかったな」

神楽坂・・・ああ、萌加さんね。

「お姉ちゃんと萌加さんの言葉?」
「費用出すから、一緒に修学旅行に行こうって言ってくれたんだ」
「モテモテじゃないですか」
「2人とも彼氏いるだろ。彼氏持ちからモテても嬉しくない」
「・・・」

彼氏、という言葉に私は思わず黙ってしまった。


先週の日曜に月島さんから判子のことを頼まれた私は、
昨日、実印を捺した紙を月島さんに渡した。
月島さんは凄く喜んでくれたし、その後、前みたいにデートした。

月島さんも私のことを好きになってきてくれている、と思う。
自惚れかな?
でも、どう考えても「彼女の妹」以上の扱いをしてくれている。

幸せだ。
だって私はそれを望んでいたから。
幸せだ。

幸せ・・・本当に?

私の前で「あーあ。温泉、入りたかったなー」とジジ臭いことを言っている師匠。
お姉ちゃんはきっと、師匠が温泉好きなのを知っているだろうから、
師匠へのお土産に「温泉の元」(海外にそんなのあるのか知らないけど)みたいなのを買ってきて、
師匠に逆に「こんなの温泉じゃねえ!金の無駄だ!」とか言われちゃうんだ。
でもお姉ちゃんはめげたりせずに「さすが師匠!そうですよね!」とか目を輝かせて言うんだ。

ほんと、お姉ちゃんて馬鹿でお人好しで・・・

だけど私は、そんなお姉ちゃんから彼氏を取ろうとしてるんだ。

お姉ちゃんはそのことを知ったらどう思うんだろうか。
どう思っても笑顔で「よかったね。幸せになってね」って言うんだろうけど。


私の胸の奥に、じわじわと苦い物が広がった。
 
 
 
  
 
 
 
 
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