第3部 第13話
 
 
 
「・・・甘い」

師匠が私から離れた時の第一声はそれだった。
私は少し乱れた呼吸のまま、「何が?」と訊ねた。

「何もかも」

意外と詩人なのね、と思ったけど、そうじゃないらしい。

「この匂い・・・チョコレート?」
「あっ。うん。さっきまでお姉ちゃんと一緒にチョコレート作ってたんだ」

お姉ちゃん=寺脇ナツミ=同級生≒日常≒いつもの自分、という式が頭の中でできたのか、
師匠が突然我に返ったように愕然とした表情になった。

「・・・ごめん・・・」

師匠は私の両肩を掴んで全身を眺めた。
見事なもので、2人とも服はほとんどそのままだ。
でなきゃ、いくらなんでもこの寒い中じゃできない。

でも多分師匠には、私が裸同然に見えるのだろう。

「こんなこと、するつもりじゃなかったんだ・・・ただ、マユミに会いたかったから・・・」
「うん。いいの」
「え?」

師匠が今度は、「なんで?」という顔になる。

「いいの。師匠とこうなってもいいって思ってたし、それに・・・」

私は師匠の目を見た。

もういつもの師匠だ。
身体中から後悔と謝罪のオーラを発してはいるものの、
さっきまでの暗いオーラは消えている。

よかった。
心の底からそう思える。


私は服を整えて、師匠に笑顔を向けた。

「もう謝らないで。悪いことした訳じゃないんだから」
「・・・うん」

師匠は私を抱き締め、そのままストンと地面に腰を下ろした。
もちろん私も一緒だ。

地面の冷たさがスカートを通り越し、お尻に伝わってくる。

師匠が、私を暖めるかのように身体をさすってくれた。

「大丈夫か?」
「うん。案外平気だった。痛いって言うより、寒い」

痛いに違いはないけど、済めば忘れる痛さだ。

「あはは、それもそうだな」

本当にいつもの師匠だ。
いつもの笑い声だ。

私はその笑い声を聞いていたくて、
わざとお姉ちゃんの作ったトリュフの話なんかをして、
師匠を笑わせ続けた。

でもふと会話が途切れた瞬間、
師匠は安心したような、気が抜けたような表情になった。

「ありがとな」
「何が?」
「いや・・・なんだろ。とにかく、ありがと」
「・・・うん」
「結婚する?」
「ふふ、しなくていいよ」
「なんだよ。せっかく覚悟しようと思ったのに」

この期に及んで「覚悟したのに」じゃなくて、
「覚悟しようと思ったのに」とわざと逃げ腰になってるのが面白い。
私が師匠のことを重く感じないように、気を使ってくれてるんだろう。


師匠は、これから話す内容を整理するかのように、
1人でゆっくり2回頷いた。

「浮気、してるんだ。いや、されてるんだ」
「え?」
「婚約中のカップルがいて・・・
俺、2人のことよく知ってるんだ。
俺のニィちゃんやネェちゃんみたいな人達なんだ」

師匠らしくなく、分かりにくい説明だ。
でも、なんとか分かる。

「ニィちゃんて、前言ってた先生やってるお兄さんのこと?」
「違う。でも、本物の兄貴みたいな人。・・・だけど、その人が浮気してるんだ」
「・・・そうなんだ」
「ネェちゃんは文句も言わずにニィちゃんが自分のところに戻ってくるのを待ってる。
でも、もう戻ってこないかもしれない」
「・・・」

師匠は、「おもちゃを壊したのは僕じゃない!」と親に訴えている子供のような目で、
私を見た。

「この前、2人の子供が産まれたんだ。それでも二ィちゃんはネェちゃんの元に戻ってこない。
子供のことも完全に無視してる」
「・・・」
「なんでだよ!?ネェちゃんは苦しんでるのに・・・
なんで、そんなことするんだよ・・・」

師匠は私から目を離し、宙を見て独り言のように「なんでだよ」と呟いた。

浮気している男の人のことを「酷い」と言ってしまうのは簡単だ。
でも、その男の人も、師匠にとっては大事な人。
きっと師匠は、女の人に同情しながらも、
男の人をかばいたい気持ちがあるんだと思う。

だからこんなに苦しんでいるんだ。

「・・・マユミは浮気なんかするなよ?」

心中をぶちまけてしまったのが恥ずかしいのか、
師匠は取り繕うようにそう言った。

「する訳ないじゃん。師匠1人でいっぱいいっぱいだよ」
「そっか。そうだな」
「浮気するとしたら師匠の方じゃない?」

冗談のつもりだったけど、言ってすぐに後悔した。

「俺は、浮気なんか絶対にしない!」

師匠の目に、またあの黒い影が現れる。
私は慌てて師匠をギュッと抱き締めた。

「うん、わかってる。ごめんね。わかってるから」
「・・・」

師匠はまるで自分を取り戻すかのように、
何度も私にキスをして、
何度も強く抱き締めた。






「ただいま」
「遅かったね。師匠のご飯に付き合ってたの?」
「うん」


少し不安は残ったものの、余り遅くはなれない。
師匠と別れて家に戻ると、
リビングでお姉ちゃんが1人でテレビを見ていた。

私は糸の切れた人形のように、ストンとソファに腰を落とした。

「どうしたの?ぼんやりして」
「うん・・・」

生返事をしながら自分の手の指先を見る。
寒さで真っ赤だ。

その指先を顔に当てると、顔も冷たいはずだけど指の方がもっと冷たいのか、
ひんやりとした感触が頬に広がる。

だけど、身体の中は燃えるように熱い。
私の中の全ての内臓が、フル稼働しているみたいだ。

特に心臓と・・・

冷たい指先で、おへその下辺りを軽く押してみる。
なんだかくすぐったい。

人間て、ううん、動物って凄い。

私の見た目は何も変わっていないけど、
私の中身はこの1時間で劇的な変化を遂げた。

私の中・・・そう、身体の中も、心の中も。


私、「女」になったんだ。


誇らしさ、恥ずかしさ、罪悪感、
色んな感情が胸に渦巻く。
でも、意外なことにその中で一番大きなのは、
「寂しい」という感情だった。

私の身体はもう二度と子供には戻れない。

歳なんて取りたくない、大人になんてなりたくない、
そう思ってるのに、身体は大人になってしまった。
私の子供時代は終わってしまったんだ。

それが、途方もなく寂しい。

でももう戻れないんだ。
私はこのまま大人になるしかない。


私は、ソファの上で膝を抱えてテレビの歌番組を見ているお姉ちゃんを見た。

お姉ちゃんは自分でああ言ってたくらいだから、まだ「子供」なんだろう。
でも、近々そうではなくなるはずだ。

その時お姉ちゃんはどう思うんだろう?
私のように寂しさを感じるのかな?

だけど私は何故か、お姉ちゃんは寂しさを感じないんじゃないかと思った。
どうしてかは自分でも分からない。
でも、きっとお姉ちゃんは幸せを感じるだけだと思う。

「幸せ」?

私は幸せ?
―――うん、幸せ。

本当に?
―――本当に。だって、師匠が私の身も心も求めてくれたんだから。



それなら、どうして私はこんなに寂しいんだろう。
 
 
 
  
 
 
 
 
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