第3部 第12話
 
 
 
キッチンだけではなく、ダイニングにまで甘い香りが広がる。

「あら。美味しそうね。・・・マユミのは」

ママが私とお姉ちゃんの手元を見比べて正直にそう言った。
ちなみに私も同感だ。
お姉ちゃんのは、どう見ても美味しそうじゃない。

「お姉ちゃん。まさかソレ、アメリカまで送る気?」
「ううん。これはパパの」
「・・・そう」

私は、匂いでかろうじてチョコレートだと分かるこの物体を食べさせられるパパに同情した。


2月13日、バレンタイン前夜。
女二人姉妹の寺脇家はバレンタイン当日以上に盛り上がる。
片思いでもしていれば別だけど、
バレンタインって当日よりもチョコを準備している段階の方が楽しいんだよね。

「ノエルさんにはあげないの?」
「うん。チョコレート、あんまり好きじゃないんだって」
「ふーん。じゃあ、代わりに来月お姉ちゃんをあげるってことで・・・」

お姉ちゃんが、トリュフ(らしき物)でベタベタになった手で、
バチンと私の口を塞いだ。
酷すぎる。

「マユミのは、師匠君にあげるのよね?でも、随分シンプルじゃない」
「うん」

私は口の周りを舐めながら、ママの言葉に頷いた。

ガー○を溶かしてハート型に固めただけのTHEチョコ。
それと、丸いチョコクッキー。
それだけ。

「せめて、もう少しいいチョコ使ったら?」
「いいの。師匠は多分、シンプルなのが好きだから」

ゴテゴテの凝ったチョコや、ブランド品の既成チョコでも喜んでくれるだろうけど、
彼女だからこそ、師匠が本当に好きなチョコをあげたい。


チョコをラッピングし終えて、
温かい濡れタオルで顔を拭っていると(さすがに舐めきれない)、
携帯のランプが虹色に光った。


公衆電話


師匠だ!

私は、顔が見えるわけじゃないのに、
急いでチョコを全部拭き取ってから電話に出た。

「師匠?」
「・・・」

あれ。
もしかして、師匠じゃない?
私、はしゃぎすぎ?

恥ずかしさで身体の中がじんわりと熱くなる。

「・・・マユミ」

少し間をあけて、電話の向こうから聞き覚えのある低い声が聞こえてきた。

なんだ、やっぱり師匠じゃん。
ホッとしたら、身体の中の熱が抜けていった。

でも・・・本当に師匠?
声は確かに師匠だけど、なんか、声のトーンていうか・・・
声の「色」がいつもの師匠じゃない。

「・・・どうかしたの?」
「今、どこ?」
「家だけど」
「今から出てこれる?」

今から?

私はキッチンの置時計を見た。
もう午後9時だ。
出掛けるには遅すぎる。

でも、師匠だってそれくらい分かってるはずだ。
それでいて呼び出しているのだから、よっぽどのことなんだろう。

「マユミの家の前の公園にいるから」
「なんだ。そんな近くにいるの?待ってて。すぐに行く」

私はホッとして携帯を切った、
けど・・・

ママとお姉ちゃんが興味津々な目で、私をじーっと見てる。

「師匠君?」
「う。うん」
「出掛けるの?こんな時間に?」
「・・・」

正直に「うん」とは言えない。
だって、こんな時間に師匠が私を呼び出したなんて知ったら、
ママの中で師匠の評価が落ちるかもしれない。
それは嫌だ。

私は必死で師匠の印象を悪くしない嘘を考えた。

「・・・えっと。あ、CD!師匠、私が聞きたいって言ってたCDを持ってきてくれたの!」
「あら。わざわざ?」
「うん!すぐそこまで来てるらしいから、ちょっと言ってくるね!」

我ながら見事な言い訳だ。
ついでに、「もし師匠が夕ご飯まだだったら、付き合ってくるから」と言うのも忘れない。
これでちょっとくらい遅くなっても、問題ないだろう。

私はエプロンを外すと、
携帯を掴んで家から飛び出した。
凍えるような外気に触れた瞬間、「コート、取りに戻ろうかな」と思ったけど、
足が止まらなくて結局そのまま走り続けた。





探すまでも無く、師匠の姿はすぐに見つけることができた。
公園の入り口近くのベンチに1人で座っている。
ただ、やっぱりその表情は・・・

ダークオーラ全開だ。
落ち込んでるなんてもんじゃない。

部活帰りなのか制服姿だけど、
ベンチに置かれている空手着には使った形跡が無く、
綺麗にまとめられている。

部活をさぼったってことなんだろう。
師匠が部活をさぼるなんて、私が知ってる限りじゃ初めてのことだ。

何かあったの?と聞くのもはばかられて、
私は公園の入り口で一度足を止め、息を整えてからゆっくり師匠に歩み寄った。


師匠が暗い目で私を見上げる。


私には、こんな時なんて声をかけたらいいのか分かるほどの経験値がない。
仕方なく、私も黙って師匠を見つめた。

師匠は一度目を逸らしてから、もう一度私を見た。
その目はさっきと変わらず暗かったけど、その中に何か猛々しい物が混ざっている。


突然師匠が立ち上がり、私の手首を掴んだ。
そして、ベンチに荷物を置いたまま、グイグイと私を公園の奥へ連れて行く。

前にもこんなことがあった。
伴野聖と食事をした翌日、師匠がヤキモチを妬いて私を学校の裏へ引っ張って行った時だ。

あの時は、お仕置きのように乱暴にキスされた。

でも、今日はあの時とは違う。
あの時より、もっと強く凶暴な感じがする。


公園の一番奥のトイレまで辿り着くと、
師匠は中に入らず、トイレの壁に私を押し当てた。

そしてすぐにキスが始まる。

いつものキスじゃない。
この後何をするか、はっきりと分かるようなキスだ。

だけど不思議なことに、
私の中に抵抗する気持ちは生まれなかった。

もう師匠とそうなってもいいと思ったからじゃない。

師匠が何に怒っているのかは分からないけど、
私とこうすることで少しでも気が晴れるならいいかな、って思えた。

だから私は、自分から何をするでもなく、師匠に身を預けた。

何の不安も緊張もない。
でも嬉しさや幸せな気持ちもない。

2月の寒空の下、しかも私の背中にはトイレの壁だ。

いくらなんでも、もうちょっとくらいロマンチックでもいいじゃない?


師匠が少し顔を離し、私の目を見た。
まだ、いつもの目じゃない。


私は師匠の背中に手を回した。


もう、いいや。
場所も雰囲気も、理由も。

とにかく、早くいつもの師匠に戻って欲しい。


それこそが、私の幸せだ。
 
 
 
  
 
 
 
 
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