第3部 第26話
 
 
 
冬よりも、街の人の歩くスピードがゆっくりになった気がする。
まるで、日が長くなったことを喜ぶかのようだ。
でも、私にはそんな喧騒が遥か遠くの世界の音に聞こえる。

師匠は黙って私の少し前を歩いていた。

やっぱり気付いてたんだ・・・
分かってたのに、私・・・

赤信号に引っかかり、師匠が足を止めた。
私も、距離を保ったまま立ち止まる。

「トラ男?」

そこまで気付いてるんだ。
やっぱり師匠って鋭い。

私は消え入りそうな声で「うん」と言った。

師匠が背中でため息をつく。

「やっぱりな。いつかこんな日が来る気がしてた」
「・・・」

信号が青に変わり、横断歩道の前の人たちが再び動き出す。
でも師匠は動かなかった。

「付き合ってんの?」
「付き合ってない!そんなことしてない!私が勝手に・・・」
「好きなった?」
「・・・」

師匠がクルッと私の方を向いた。

いつもの師匠だ。

笑ってはいないけど、怒ってもいない。
どこか穏やかな表情で私を見ている。

「ごめんなさい・・・」
「何が?俺と付き合ってるのにトラ男のことを好きになったこと?
それとも、俺と別れること?」

別れる。
その言葉に思わず身震いした。

私、師匠と別れるの?

はっきりとした答えを出したくなくて、
私は逃げた。

「浮気したこと・・・」
「何かした訳じゃないんだろ?」
「そうだけど・・・浮気だよ」
「確かにな」

俯いてギュッと鞄を握り締める。

師匠はどういうつもりなんだろう。
私が別れたくないと言えば、今まで通り付き合ってくれるんだろうか。
それともやっぱり、私のことを許さないだろうか。

私ってずるい。

師匠が別れるつもりがないのなら、「別れたくない」って言いたいし、
師匠が私を許せないのなら、潔く「別れましょう」って言いたい。

師匠の気持ちを知りたい。

「トラ男は知ってんの?」
「ううん」
「じゃあ、俺と別れても、トラ男と付き合えるとは限んねーじゃん」
「・・・うん」

それどころか、嫌われてると思うし。

でも、そこまで言うのはずる過ぎる気がして、
私はかろうじて言葉を飲み込んだ。

「マユミ。俺は、心の浮気は許せる。
人間だからさ、どうしても恋人以外の誰かを好きになることはあると思う。
だから、マユミのこと怒ってない」
「師匠・・・」
「人を好きになるのは悪いことじゃない。
それで乗り換えるのも仕方の無いことだと思う。
ちゃんと俺と別れてからにして欲しいけどな」
「・・・」
「恋人以外の誰かを好きになってしまって、どうしても止められないって、
いい経験だと思うぜ?
そこで、踏みとどまったり乗り換えたり・・・そういう経験を若いうちにしとかないと、
二ィちゃんみたいに、子供まで作っておいて浮気する、なんてことになりかねないからさ。
だからマユミも好きなようにすればいい。ただ・・・」

師匠が濡れた目で私を見る。
泣いてるんじゃない。

何かを私に求めているような、
懇願するような・・・

師匠のこんな目、初めて見る。

私がその目から視線を外せずにいると、
不意に師匠が私を抱き締めた。

通行人が私達を見てるけど、
気にもならない。

「俺はマユミと別れたくない」
「・・・」

やっぱり師匠は優しい。
私が知りたいと思ってる答えをちゃんとくれる。

それなのに・・・

師匠が別れたくないって言ってくれてるのよ?
「私も」って言うんでしょ?

だけど私の口は開かなかった。

師匠が私の耳元で囁く。
喉の奥からしぼり出すような、苦しげな声で。

「好きなんだよ・・・俺、マユミのこと、好きなんだよ・・・」

心臓がギュッと握られたように息苦しくなる。
さっきベッドの中で抱き締めらた時の何倍も苦しい。

早く言わなきゃ。
「私も」って早く言わなきゃ。


だけどついに、私の口からは一言も言葉は出てこなかった。








「邪魔」

少しお尻を浮かせた三角座りで膝の間に顔を埋めていると、
頭の上から声がした。

目だけ膝の間から出して上を見る。

「人んちの前でダンゴ虫ごっこしてんじゃねーよ。パンツ見えるぞ」

私はフラフラしながらゆっくり立ち上がった。
余りに長い時間同じ姿勢のままだったからか、
全身に血が行き渡っていない気がする。

辺りはすっかり真っ暗だ。

ママに遅くなるってメールしたっけ?
まあ、いいや。

伴野聖はうっとうしそうに私を見た。

「なんか用?」
「・・・うん。前の続き」
「は?」
「言い足りなかったなと思って」

ようやく全身に血が巡った私は、スウッと息を吸った。

「あんたもう21歳なんでしょ?よく海光の制服なんて着れたわね、このコスプレ野郎」
「・・・」
「それにね!女の人に酷いことばっかりしてたら、いつか絶対痛い目にあうんだから!
あんたなんか、女の敵よ!ちょっとモテるからっていい気になって!」
「・・・」
「そんなんだから、親もあんたに期待しないのよ!
親への餞別代わりにおもちゃショーのコンペで伴野建設が勝つようにした?
そんなこと言って、本当は親に認められたいんでしょ!?」

私は肩で息をした。

こんな奴・・・こんな奴のせいで・・・

私は恨みを込めた目で、
全力で伴野聖を睨んだ。

「言いたいことってそんだけ?」
「・・・は?」

伴野聖のケロッとした声に、思わず素の顔に戻る。
そんだけって・・・充分でしょ?

「じゃ、行こうぜ」

伴野聖がポケットに手を入れてさっさと歩き出す。

「ちょ、ちょっと!どこ行くのよ!?」
「ついてきたら分かる」
「・・・」

私は訳が分からないまま、伴野聖の後ろを歩き続けた。
 
 
 
 
  
 
 
 
 
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